超ブルー

 

祖父の家の犬が死んだという1時間前のLINEに気づいた学校のトイレには

多分自分と、自分の友達数人しかその場には存在していなかったような気がして

 

夜ご飯の鍋は、肉がかたくて、きもちがわるくて

 

あの人におすすめされてたHUNTER × HUNTERを今更になって見始めたところで

 

あの人と自分ともう1人で仲良くしてた3人の、そのもう1人と久しぶりに会って、まだ自分の中のあの人へのおもいを伝えたところで

 

なにかがよくなるわけなくて

なにもかわらなくて

 

 

なにが普通だったのか、なにが今までどうりだったのか

全てが

思い出せなくて

 

 

吐き出したくて、逃げだしたくて

 

 

 

 

 

 

去年の、学校に行ってなかった時に見に行ったさくらと

 

今年の、目まぐるしく過ぎていった高校生活終わりのさくらが

 

同じ場所の、同じ時期のさくらが、

 

到底おなじとは思えなくて。

 

今まで、満開の桜ってすこし苦手意識があったの

綺麗すぎて、眩しすぎて、目を逸らしたくなってた

うまれてはじめて、満開のさくらが、咲き誇ったさくらが

きれいだとおもえるようになってることがほんとうに

ほんとうに、うれしくて、

 

 

 

 

クラス替えがあって、去年仲良くしてた子達とはみんな、ばらばらになってて、

違うクラスだった、少し苦手なタイプの子達と同じクラスになって

ちょっと、不安

 

けど仲良くなりたいな

 

話しかけるところからがんばらないと

 

大きな声が苦手だから、って今まで思ってた、今でもそうだけど、

 

苦手だと思ってた子が、アニメを見てて、好きだとか、彼氏には素直になれてなくて、とか、tiktokはちゃんと可愛い顔して撮ってるところとか

可愛いところが多すぎて、

 

なかよくなりたいって気持ちが上回っちゃって、大変

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰省

東京から帰省してきたあねが、昨日帰った。

流石にもう2年も前に上京して、なんども家に帰ってきているから、またねなんてかるいものだったけど、ちょうどもう2年前の、姉を東京に置いてきた日は、今でもくるしくなる

 

学生マンションの4階からみんなで静かに降りて、目の前に止まっている車に、

自分と父と母だけがのりこんで、姉はまだ外で、

乗りこむことなんてなくて、中の3人だけがシートベルトをしめて、

準備がおわって、なのにねえねはまだ外のままで

ばいばいしか言えなかった

もうマンションが見えなくなった時、自分と母は声をおさえて、号泣していた。

窓の外をみてたから父はどうだったか分からなかったけど

なにかを話始めるまでに時間がかかった

 

置いていったのは自分らなのに、なんで自分をおいていったんだよって、ひとりにしないでって

家から人が1人へって、車の後部座席が1席あまって、4つ入りのプリンが、ひとつ余って、こたつの1辺があまって、自分の隣の部屋から、ものおとがしなくなって

 

今文字を打っている時もなみだがとまらんくて、

 

たった1年くらいで3人の生活が当たり前になってしまったことが、喧嘩しなくなったことが、

もうむりで

 

2年もして、ねえねまだこっちいるんだって気持ちが頭によぎって、

 

 

時間っていうものは長さとか重さとか関係なく、減ることなんてなくて、

3年嫌だったことと5年幸せなことは、5年幸せだったことだけじゃなくて、ぜんぶで8年分の記憶としてのこるから

姉とすごした14年間は、姉がいなくなって14年目に消えるものじゃないから

 

 

思い出なんて、確実に消せないし、上書きできないし、意識してつくらないなんてこともできないから

 

どんなことも受け入れて、いくことしかできないの

 

 

 

大切なところ

今年の夏、とてもはしゃいでいて、汚いけど眩しい時間で、その時に好きだったものとまた今度触れ合える機会ができたときに

今、できるだけ綺麗な状態を保って、綺麗な人達に囲まれている中、汚れた記憶とともについてくる自分の好きな物っていうものは

無理に同じ土俵でかんがえなくてもよいんだとおもうの

 

正直思い出したくないような夏の思い出なんていくつもあって、その時期に好きだったものを今の綺麗な人達に、教えるとなると、思い出したくもない思い出まで教えてしまう気がして、

 

自分だけそれを思い出して、物思いにふける事が多くなってしまうのが、

 

恥ずかしいというか、そこまで素直にならなくても、隠しておいていてもいいんじゃないかっておもう

 

自分の全てを知ってもらう必要なんてなくて、自分の好きだった大切だったものだからこそ、ちゃんと境目を分けてあげることが

自分にとって大切なんじゃないかなって

思い出を大切にする方法って、簡単なようで実は難しい

 

自分にとっての大切の定義はそもそも人によって違うとは思うのだけれど

 

少なくとも自分にとっての大切とは、何度でもおんなじような温度感で、おんなじ事を、おんなじ気持ちで感じられること、かなって

 

それを今状況が全然違う中でも体験しようとしちゃうと、それは思い出を塗り替えてしまっているような気がして、おちつかない

 

 

 

 

 

少しずつ

 

学校の授業をはじめておもしろいと思ったきっかけをおもいだした、

 

きっかけは歴史の世界史、第二次世界大戦の詳細を教わったこと、多分国の名前と位置を覚えることにはまっていた時期に、あ、ポーランドはここだよね、チェコスロバキアチェコスロバキアの合併なのかな、とかそういう補足のような知識をたまたま持っていたから

分かるのっておもしろいってなったのだと思う

 

それから、YouTubeで、世界の地理雑学だったり、第二次世界大戦中の細かい出来事だったりをみるようになって、よりたのしくなれてきた

 

学ぶことの楽しさをしれたことが、高一の段階でよかったのだとおもう

 

だから歴史だけじゃなくてほかの教科でもそう考えられるようになって、テストコース順位2位で、成績は1位とれたの、めちゃめちゃうれしかった、

でもやっぱり1番は世界史だと思うから、もっと色々なことを知っていって知見を広げていきたいし、自分の身になるようにしたいななんておもう

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出したこと

新海誠だとか、細田守の映画がとてもお気に入りなんだけど、今はおおかみこどもの雨と雪が1番みたいな、

 

 

それと一緒に思い出したのが、君の名はのモチーフである飛騨地方の、父の故郷に行ったときのこと、

 

尋ねたのは去年の5月くらいで、お父さんのバイクに乗ってドライブがてらついて行った

飛騨地方の、しかも山の方にはやっぱり土地神様がおおいから、神社が沢山あって、そんな中に祭りをしてる所があったの

 

大きいところじゃなかったけど、気になったから近くまで行ったら、笛太鼓とか鈴の音とか、地域の人たちがたくさんいて、自分らは完全に部外者だった

その境内みたいな所で、小さな女の子が何人かで衣装を着て舞ってた、

それをみて、君の名はの宮水家みたいだなって、普段の生活とは別世界みたいだなって思った。

ほんとにその辺りの地元の人しかいなかったから、すぐにまたバイクに乗ってふるさとの方にむかったの

 

 

ふるさとについたとき、少し不思議な気持ちになった

お父さんが住んでいた辺りに、家らしきものはなくて、その時その近所の人が話しかけてくれて、もうなくなって、そこの駐車場になったよって教えてくれた

お父さんがその頃遊んでいた友達の家は、廃墟になって半分崩壊してた

小さな商店街には小さなお寿司屋くらいしかなかった

川の崖沿いにたった家は、ギリギリを保ってた

 

その後、もっと街をみて回るためにバイクにまた乗った時に、お父さんとはなして、どうやらその町は鉱業が盛んだったそう

だからお父さんと一緒に小さなお城のそばにあった鉱山資料館をたずねた

当時使われてた機械や、採れていたものとか、鉱業の歴史とか

小さな資料館だったからお父さんと一緒に20分くらいみてた

 

その後、その街が今、巨大な研究に使われてるって知って、その研究のことについての博物館みたいなところに行った

 

スーパーカミオカンデ

 

ニュートリノっていうとっても小さな粒子を観測するために、街のそばの地下深くに作られて、今後、もっとすごいハイパーなものが作られるんだって、

 

その後ご飯食べて父の実家に戻った

 

 

 

ほんとに不思議な感覚だった、君の名はが大好きだったから、その世界に来ちゃったんじゃないかと思った

 

お父さんと、バイクに乗りながら話をいろいろ聞いて、その故郷について少し詳しくなった

 

 

 

 

その故郷は鉱業で栄えた街だった

 

 

商店街とか、観光事業とか、至る所につくられるくらいには景気が良かったけど、それが一変する出来事が起こった

 

 

 

1968年、四大公害のひとつ、イタイイタイ病が、街の鉱山から放出した成分によって発症した

 

 

これにより、街の鉱山は機能しなくなり、街の一大産業が潰え、一時期は栄えていた街は次第には衰えていったという

 

 

その後の1983年に、鉱山の跡地を利用したニュートリノ観測所がつくられ、2001年に鉱山は完全に採掘を停止した

 

 

 

 

イタイイタイ病が広まり、その後の2001年までの間に、その街の16もの学校は廃校となり、今では全6校となっている。

 

 

 

 

 

当時の街の辛く大変な切なさが、5月に訪れた時の哀愁や不気味さをつくりだしていたんだと思った

 

 

 

こんな場所、こんなエピソードを知ることなんて、父のふるさとでもない限り絶対に知ることがなかった

いい思い出だとおもう、

また、あの街に、いきたいな